プロフィール

つっちー

主筆:つっちー
九州方面某田舎在住。
三十路男。偏屈。理屈屋。
人生ザッピング。
最近、妻に逃げられました(マジ)。

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誰がその子を殺したか?・・・(悲しい出来事、再び)
二度目である。友人の子供が亡くなった。年齢10歳。残念でならない。去年も一人、命を落としている。今回も喘息の発作で亡くなった。前回も同様だ。アレルギーとか、喘息とか、昔からあった病気ではあるのだけれども、近頃は発生件数が異常に多い気がする。友人達の子供でも、十人の内、二、三人とか。もっと多いくらいの子がなにがしかのアレルギー疾患を持っている。「かわいそうだな」と思う。小さな子供には甘い物が欠かせないし、お菓子が好きな子がほとんどだろうけれど、玉子アレルギーの子は通常のケーキを食べる事が出来ない。小麦粉アレルギーの子に至っては、パンや市販の菓子類も食べる事が出来ない。食べる事は生活の楽しみの内の重要な要素を占めていると思う。「食べるために生きている」とは言わないが、「食べなければ生きては行けぬ」のは真理であり、必然が楽しめないどころか、苦痛になってしまうのでは辛かろうと思う。「環境が悪いのだ」と学者達が言うけれど、その状況の一端を担っていたのは自分たちでもある事は誰も言い出さない。

亡くなった友人の子供もまた、喘息だけでなく、食物アレルギーの類もいくつか持っていた。「楽しい事がこれから沢山待っていただろうに」と思う。中学、高校と進んで行く内には、恋人も出来るだろうし、結婚し、家庭を持ち・・・とまだまだ先の長い人生が彼にはあったはずなのにその楽しみの半分も体験することなく、亡くなってしまった。「窮屈で生き難い生活であったろうな」と年に数度しか会わぬ私ですら思う。

友人は長距離ドライバーである。この日、彼は、大阪から帰り荷を積んで帰ってきている時であったという。奥さんと子供だけで家に居たらしい。発作を確認し、いつもと様子が違う事を感じた奥さんは救急車を呼んだ。救急車に乗り、病院へ搬送するわけだが、受け入れ拒否もあり、時間を取られたという。その後、やっと見つかった病院へ搬送されたものの、その病院での対応も決して満足の行くものでは無かったと奥さんは悔やむ。掛かりつけの病院に自分で連れてゆけば良かったと。友人は連絡を受けて、寝ずに高速道路を使って、帰ってきている最中、山口県内で子供が亡くなったことを聞いたという。その思いを慮ることなど、奥さんを除けば誰にも出来る事では無い。

通夜の席で友人の祖父がボソリと我々を前して呟いた。

「あの子は運が無かったんじゃね・・・」


それはそれは悲しい言葉だと思った。最愛の曾孫を失った悲しみは如何ばかりかと思うが、「運が無かった」と思わねばやり切れない。友人夫婦に投げかけられた言葉でも無かったかと思う。

しかし、若い命が失われた事は事実である。今はただ、冥福を祈るのみ。死後の世界があるというなら、せめて、幸せになって欲しい。



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周辺雑記・日記 | 【2006-02-23(Thu) 01:27:30】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
単一民族国家・日本・・・(滋賀県幼児殺害について)
日本が単一民族国家である理由は、海に囲まれているからとか、江戸時代の鎖国が原因だとか、色々と考えられる事は考えられるが、そんな事はともかくとして、とりあえず、単一民族国家として成っている事になっている(ちょっと日本語おかしいな)。しかし、前にも書いたけれど、九州に帰る前に住んでいた東京都新宿区では、アジア系、中東系の人も多くいたし、とにかく、雑多な人種の人々が街を歩いていたし、そこを生活の基盤にしていた。

そういった街に住み暮らすということは、取りも直さず、慣れるということに繋がる。最初は、正直言って、出来るだけ彼らを避けようとしていた節もあった。友人連れや家族連れの場合は特にそうだ。一人なら、ちょっとやそっとの揉め事を解決するのは苦ではないが、自分以外の人がそれに巻き込まれるのはよろしくない。よって出来る限り避ける事を考えていたのだけれども、慣れてくるにしたがって、顔見知りもできたし、話もするようになっていった。東京都知事の「三国人」発言などは論外だが、外国籍というだけで、微妙な色眼鏡で見てしまいがちなのは、これだけ国際化と言った所で、特別に変化があったようには思えない。そんな事は今更言う事でもない気もするが。

しばらく前に、地方の農家などで、東南アジアから嫁を向かえる話を書いたけれども、無論、留学してきた人や働きに来ている人と恋愛結婚する人だって居て悪くない。国際結婚は難しいと言うのは、よく聞く話だが、フィリピン人女性と結婚した先輩がいて思った以上の大変さに愚痴をこぼす事も多い。国によって差があって当たり前だし、日本で当たり前の事が海外ではありえない事であるというのも多くあるだろうと思う。日本国内でもそうだ。例えば、喫茶店では粘っている客を帰す時「コブ茶」を出す。「コブ茶」を出されるまで粘るのもどうかとは思うが、それを察して帰ればよろしいだけのことで格別恥ずべき事ではなかろうし、京都の「ぶぶ漬け」も(食べて良いのか、悪いのか知らんが)察して帰ればよろしいのだと思っている。私の年齢でも、これらの事を知らぬ人は少なくない。世代差や地域差によって大きく異なる文化はあるということだ。

で、例の滋賀県の幼児殺害事件である。一般に報道されている以外の情報ソースから話を聞く機会を得た。才媛ではあったようである。五ヶ国語を解し、通訳など、いくつかの仕事をこなしていたという。評判もそれほど悪くは無いという事らしかった。才媛ゆえの苦しみもあったのでは無いか?とも思えてならない。中国という国では、長く「一人っ子政策」がとられていた事は広く知られている。すっかり忘れて、中国人の方に「兄弟は居ますか?」などと失礼な質問をした事もある。彼は天津にあるエリート校に通っていて、日本語が話せた。そこに通えると言う事は、成績がすこぶる優秀であるのは言うまでも無い事で、一族の期待を一身に背負っているという場合が多い。彼の立身出世が一族の繁栄に繋がるという事である。日本とて同様で、努力を積み重ねて、立身出世を果たすというのが、誰しもが思う成功の形であった時期もあった。今回の事件は、そんな思いの裏返しなんじゃないか?と思えてならない。予測の域は出ない。けれども、彼女が思う、あるべき形には到底近づけなかったのではなかろうかと思う。

景気回復の兆しがあるにせよ。昔ほど、日本に魅力があるとは思えない。恐らく、韓国や中国の経済特区(上海とか)の方が魅力的なんじゃないかとも思える。一族の繁栄を目標に努力した才媛が日本にやってきて、結婚し、家庭を持つ。出産し、子育てする。その日常と一族の繁栄には大きな隔たりがあるように思う。

「子供の為にならないと思った」


うがった見方かもしれないけれど、それは自分の為にならなかったんじゃないのか?と思えてならない。



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時事問題 | 【2006-02-21(Tue) 22:45:57】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
人生の立ち位置・・・(属性について)
立脚点とか、立ち位置とかいう言葉がある。私の会話の中では利用頻度が比較的高い言葉である。あと、「極力」なんかも頻度が高い。文章内ではあまり出てこないけれども。

自分の立ち位置について考える事がよくある。自分の立場から逸脱しすぎない事は人間関係を円滑に運営するための一つの秘訣なのではないか?とも思っているので。自分では、そう思っていないが、不遜な人間に見られがちなので、謙虚であることには心掛けている。多かれ少なかれ、見た目で決まる評価みたいなモノがどこかにあって、その事は誰もが気が付いていながら、なかなか、言い出さない事なのかも知れない。だから、新書「人は見た目が9割」が売れたのではないかと思う。読んではいないので、評価する事は出来ないけれど。

誰しもが、何処かで、何かの敬称を持っているのだと思うし、持ちたがっているのだと思う。例えば、生まれたての赤ん坊であれば、「だれそれさんの子供」この属性は基本的に付いて回る。それが年齢を経るにしたがって、「なんとか高校の何年生」とか、「なんとか大学の何回生」とか、「なんとか株式会社なんとか部」という属性を刷新し続ける。個性がどうのという事ではなくて、寄る辺としての「属性」が無い事への不安は大きいのではないかと思う。それはそのまま、立ち位置に繋がる。景気悪化と同時に話題になったリストラの恐怖は収入減少などと同時にこの恐怖も生み出している。リストラされても、再就職の折には、「どこそこで部長してました」と自己紹介する人が居るという。部長だったから、採用されるわけではない。リストラされた時点で、部長だろうが、役員だろうが、その会社で必要か、不必要かの両天秤に掛けられて、不必要とされたのだから、前職の役職など意味をなさない。未属性あることの恐怖は、何事にも変えがたいのかもしれない。西日本新聞紙上に、「愛の領分」で直木賞を獲った、藤田宣永氏が「戦力外通告」という小説を連載している。飛び飛びでしか読んでいないが、主人公はどうやら、リストラをされたのか、早期退職者制度を使ったのかで、会社をやめた中年であるらしい。「戦力外通告」という言葉がリストラの代用の言葉として通用するなら、恐ろしい事なのかもしれない。属性を無くしたことで、自分が戦力外と認定される。それまで頑張ってきたこと、積み上げてきた事、それらに裏づけされた揺ぎ無い自信、全てが失われる瞬間に、未属性であることが立ち会うことになる。やもすれば、属性を失った後に、家族からも見捨てられてしまう可能性だってあるだろう。恐怖である。

「何しても食っていける」と言っていた友人が居て、彼は長く放浪していたけれど、その旅も今年中には終わるらしい。帰ってくるというメールが来た。浮き草である事を誇りにしていた男だった。私など足元にも及ばぬと常々思っていた一人が、未属性であることに恐怖を覚えたのだろうし、帰属したいという欲求を拭いきれなかったのだろう、帰ってくるという。最後に一文、「帰ったら何するか考えてない。相談に乗ってくれ」と書いてあった。喜んで相談には乗らせてもらうけれど、少しばかり残念でならない。



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周辺雑記・日記 | 【2006-02-19(Sun) 12:18:56】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
匿名性とか、収益性とか・・・(匿名はまだ必要)
ネットにおける匿名性というのは、利点もあれば、問題点もあるなどということは、今ごろになって、議論をするべきことだとは思えない位に議論され尽くした感もある。けれども、現在のネットを取り巻く環境が退化(というのは、利用者にとって技術的な後退をするということ)する事は考えにくく、これまで進んできた方向を考えれば、より身近に、より簡単にという方向へと進んでゆく事は想像に難く無いのでは無いかと思う。思えば、テレビのチャンネル設定とて、近頃はデジタル放送に対応して、ボタン一つで全ての設定が終わり、各種レコーダーも番組表まで自動取得をする。通常の利用方法をとる時にチューニングする必要性はほとんど無い。ネットとて同様の方向に進んで行くのではないかと思っている。それは間違いでは無いとも思っている。

2000年前後にまとめられた「「匿名」による批判の禁止ルール」というのがある。著者の名をとって、黒木ルールなどと呼ばれる事もある。久方ぶりにとあるはてなダイアリーで書かれている日記でその名前を目にした。このルールは読めば解るが、格別に間違った事を書いているルールでは無いけれど、匿名である事の利点は、TV電話が普及しない理由と同様に恐らく完全な否定は出来ない。

匿名である事の利点は、取りも直さず、好き勝手なことが出来るという点と多少の恥は掻き捨てる事が出来るという点、さらに、基本的に何かの厄介ごとに巻き込まれることが無いという三点だと思う。この利点は大きい、私が下調べ不足で何かを書いたとしても、精々、何処かのBlogでこき下ろされるぐらいで済む。実生活に被害を及ぼす可能性は限りなく低いと言って良い。

同様にTV電話が普及しないのは、相手に見られることの無いコミュニケーション手段であると言う事だ。寝起きであろうと、風呂に入っていようと大丈夫であるという点が利点となっているから、TV電話が普及しない。今後、技術革新が進んで、さらに、鮮明で、リアルタイムの動画が再生できたとしても、TV電話は恐らく一般化しない。好きな人に告白する瞬間、直でなく、電話でするとしたら?それは、TV電話では意味をなさないでは無いか。

今月に入って、SNSに加入した事は書いた。SNSを「村社会」的だと多少批判気味のことを書いた事もあったが、やってみると面白いなと思うこともある。本来的には、本名での加入が妥当なのかも知れぬとも思われるが、存外、本名でない名前で登録している人も居る。緩いコミュニティーなのだなとも思う。もっと、クローズドなイメージが強かったが、入会そのモノも数人の友人を辿るなりすれば、問題なく入会できるようだし、それほどのものでもないなという印象を持った。

で、隣国・韓国でも日本以上にネットが一般化してきていて、ネットカフェの数は相当な数にのぼり数ヶ月前には、ネットカフェで死んでしまった人さえも居た。そんな韓国では、「Cyworld(サイワールド)」というSNSがほぼ一人勝ち状態で居るらしい。詳細は、PCWEBのこの記事を読むのが良いかも知れない。このサービスは、入会する時にかなり詳細な個人情報を入力する必要があって、日本でいう所の「住民基本台帳」の番号なんかも入力しなければ入会できないらしく(韓国語に疎い)、個人の特定など容易である。このサービスが来春、日本に来るというけれども、恐らく、そこまで大きなブームにはならない。匿名性が低すぎるというか、皆無である事が大きな障害になるということだ。そもそも、ネット上のサービスが基本的に無料であるという点から始まった。利用者増加のためには仕方の無い措置だったのかも知れない。けれど、それを「どうやって稼げる形にするのか?」に誰もが頭を悩ませ続けている。アフィリエイトが流行っていると言った所で、もっと確実な形での収益方法が無ければ厳しいことなど解り切っていることで、誰もがそれを模索している段階なのだと思う。そんな状況で、匿名性を否定することは困難な事なのでは無いかとも思う。淘汰されるのは良い。より良い形のモノが残るならば。けれど、改悪を重ねて、見えない方向へと流れて行きかねない気もしている。五年後どころか、来年には、画期的な「何か」が生み出されて、劇的な変化を遂げているのかも知れないけれど、今のところは、まだ、こんな段階なんじゃないか?と思っている。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-18(Sat) 16:26:59】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
境界の曖昧さ・・・(知的障害者に対するセクハラ)
ハラスメントについて一歩踏み込んだ所を考えてみる。ハラスメントといえば、セクハラ(セクシュアルハラスメント:性的嫌がらせ)が一般的だが、セクハラに限らず、当人の属性を対象とした嫌がらせというのは多々ある。例えば、[痩せている/太っている]という二択。現在の世情では、概ね、痩せていることで非難を浴びる事は無いが、太っている事による非難は大きい気がする。二十年も前に遡れば、恐らく、戦後の食糧事情が悪い時期を過ごした人々(特に現在、70代程度の人が中心かな?)の思いもあってか、一定の年齢に達した人が多少、肉付きが良いのは「貫禄がついた」「恰幅が良い」などとそれほどネガティブな言葉で語られる事は少なかったのではないかと思う。確かに、食糧事情や生活環境が大きく変わった事で今度は肥満に対する非難が大きくなっている事も事実であるから、それは仕方の無い事ではあろうけれども、基本的に太っていても、痩せていても、当人の自由なのであって、それだけの理由で不当な扱いを受けるのは行過ぎだとは思っている。別に、自分が太っているからというわけではないと言ってみる。

同様に、[身体不自由/五体満足]という二択もある。身体障害者という言葉があまり好きではない。「身体不自由」という言葉を基本的には使いたいと思っている。しかし、東京の下町で使われている東京弁には今では放送禁止用語になっているような言葉もたくさんあるがそれらの言葉が問題だとは思っていない。と、言葉の問題は別の機会に譲るが、例えば、手足が不自由な人が何処かに出掛ける場合、余程の近所でなければ、完全に一人で目的地にたどり着く事は困難だと言わざるを得ない。誰か他者の手助けが必要な場合がほとんどと言って良い。だからといって、彼らの外へ出掛ける権利を侵害する事は誰にも出来ない。盲導犬を連れた女性の話を書いたことがあるが、盲導犬を連れて入れるレストランの数は増えたとはいえ、それほどの数に達しているわけでもない。また、電車内、バス内においても、同乗した乗客が迷惑な顔をする場合も多々ある。こういった、当人の努力でどうしようも無い部分に対する差別的目線には怒りを覚える。前述の[太っている/痩せている]とは根本的に違う問題なのである。

また、ほんの十年、二十年ほど前の精神病院の閉鎖病棟の現状を精神科医の方に伺った事がある。病人を迎えに来る人も居ない、面会に来る人も居ない、紐で繋がれる、ベッドに縛り付けられる。電流を流す装置をつけられる。といった人権以前のレベルでの扱いがなされていたという話である。今でこそ、鬱であることなど、誰に憚ることなく表明できるが、その頃は精神を病んでいることを表明することは社会からの抹殺を意味していた時期もあったと言う事だ。このことを踏まえた上で、昨日のニュースで流れた知的障害を持つ児童に対するセクハラ裁判の判決について考えてみる。

「そういった事実があることは認めるが、場所や時間の特定が出来ない」


という判断で、結局は無罪となった。これは、その被害を受けた児童が知的障害を持っていることでその証言の信憑性を疑ったということだ。ここに強く疑問を感ずる。じゃあ、盲導犬を連れている人が交通事故現場の近くを通っていたとして、彼女の証言は全く意味をなさないという事になる。耳が不自由な人が通りかかっても同様だ。おかしな話では無いか?知的障害を持つ事と被害を受けた事は別個であり、場所や時間の特定が出来なくても、被害を受けたことが事実であるなら、罰せられなければならないと考える。

「社会的弱者だから守らなければならない」


と言っているのではない。その考えを頭から否定する事はしないが、その考えが臭い物にには蓋をする的な考えに繋がっていることは事実であるからだ。その事が前述の精神病院の状態を生み出したことも事実である。彼らの権利は正当に守られなければならず、それが守られていないということは、

「何をされても泣き寝入り」


と言っているのと変わらぬと思うのだが。



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時事問題 | 【2006-02-16(Thu) 20:11:30】 | Trackback:(1) | Comments:(1)
甲斐性の尺度・・・(バレンタインデーについて)
昨年もバレンタインデーについては書いたが、今年もさらに書くことにする。今年は勤め人になった事もあって、同僚諸氏から適度な数がいただける事はほぼ確定している。無論、義理も義理、チロルチョコ一個とか、そういう感じなのでは無いかと思える。パチンコ店などにおいても、コーヒーレディー(飲み物を席まで運んでくれるサービスがある)の子達がパチンコ店御用達のハート型チョコを飲み物と一緒にサービスするのが一般的だ。美容院などでも、恐らく、今日は男性が行けば女性の美容師からちょっとしたチョコを渡されるような機会もあるだろうし、夜の街では、大量に買ったチョコレートを持った女性が多数見られるに違いない。そんな中で、私は有給を取っている。役所に行かねばならぬ用事があり、どうしても、今日の内に処理しなければならない案件もありで、無理を言って有給を取った所が、そういえば、今日はバレンタインデーではないかということに気が付いたのである。昼前に気が付いて煩悶した。

「いかーん。こんな日に休む事になるとはっっっ!!!」


と自分の不幸を嘆いた。それというのは、貰える数はある意味で、「男の甲斐性を図る尺度」に使えるのではないかと思えるからだ。事実、若い独身男性で、イケメン、仕事も出来るというような稀有な人口の数パーセントしか居ないような属性の人は物凄い数を貰っている。テレビで活躍する若手の俳優も無論大量に送られてくるだろう。ジャニーズ事務所でも、トラック数台分になる量が毎年送られてくると言うし。しかし、送ったところで、彼らがそれを食べる事は無い。血液、毛髪、爪、果ては、書けない様なモノまで入っている可能性のある食べ物を口に出来るわけも無く、全て廃棄処分になっている事は言うまでも無い。「遠くの親戚より近くの他人」では無いが、そういった所に送るより、身近な人に送っておいた方が、リターンも大きく。「海老で鯛を釣れる」可能性もあるように思う。おすすめである。

そんな事を考えながら我が身を振り返れば、今年は実に上手く無いことに、実家に帰っている上に妻に逃げられた身であるから、既にハンディを背負っているというのに、ごく身近に、弟という比較対象が居るのである。この弟、兄(つまり私)と違い相当にモテる。むかつく事だが事実である。私とは全く趣味や特技が異なるこの男は学生時代から相当に浮名を流していた。しかも、今の仕事は配達系の仕事に変わっている。配達先での人気も上々であるようだ。こやつと私との戦いになる。「いい歳をして何を?」と言われても仕方が無いが、兄として、弟に負けるわけには行かぬ(笑)兄の威厳を見せ付けなければならない。ただでさえ、昨今、怠惰な生活をしている私を冷たい目線で見る弟の目線が痛いのだ。

これだけはしたくなかったのだが、最終作戦に出た。先ほど、買い物ついでに何食わぬ顔でワゴン売りしていたチョコを大量購入して来た。自腹である。これで、バレなければ数の上では対等に戦えるのではないかと思う。アホの所業と言う無かれ。これは意地である。



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周辺雑記・日記 | 【2006-02-14(Tue) 18:54:57】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
ウインタースポーツ・・・(冬季オリンピックについて)
夏季と冬季にそれぞれオリンピックがあるが、個人差はあるとはいえ、夏季と比べて、冬季は盛り上がりにかけるような気がしている。スポーツ人口が少ないというのが最も大きな問題だとは思うし、馴染みの薄いスポーツが多い事も一因だろうとは思う。夏季オリンピックでも、私が観たい競技が必ずテレビ放送されるわけではない。例えば、デカスロン(日本名は十種競技)やヘプタスロン(日本名は七種競技)などはほとんど放映されない。どちらの競技も欧米では人気のあるスポーツで人気があるのだけれども、日本での認知度は実に低い。結構前に、漫画になっていたりはしたので、憶えている人も居るかも知れないが、認知度がそれほど上がる事は無かった。観戦しても面白い競技ではあるのだけれど。
夏季ですら、そういった状況であるから、冬季もさらにその傾向は強い。フィギュア、ハーフパイプ、スキージャンプなどは、認知度も高く、人気もあるし、スター選手も多いので、テレビ観戦する人も多いだろうけれども、メダルの期待が高いスピードスケートなどそれほど盛り上がる競技では無いように思う。

と、ここまで書いて、塩漬け状態になっていたのだが、続きを書く。結局、開催して直ぐに、日本のメダル獲得が有力視されていたモーグル、ハーフパイプ、スキージャンプ・ノーマルヒルが行なわれたが、メダル獲得は出来ず。ハーフパイプに至っては、予選通過も出来なかった。残念でならない。正直いって、ウインタースポーツの経験がほとんど無いに等しいこともあるので、観戦したも採点基準が他の競技(例えば、野球やラグビーのような対戦型スポーツやマラソンなどの競技)と比較して解りづらい事もあって、出てくる感想は「すごいなあ」とか、「あんなに飛べるのかあ」とか単なる感嘆に終始してしまう。一般の人で、それなりに採点基準を理解して、観戦している数がどれくらい居るのか?というのはそのスポーツが盛り上がるかどうかの基準にもなりえると思える。例えば、野球とラグビーではどちらの方が人気か?といえば、野球だが、ルールを理解しているというのが大きい。ラグビーのルールを理解している人はそれほど多くないと思う。この点が盛り上がりにかける原因なのかなあと改めて思うのである。各局のアナウンサーが良く勉強していると感心する(特に、NHK)。ハーフパイプのエア(空中で回転したり、板を手に持ったりという演技)の名前など、素人には全く解らないわけだが、猛勉強をしたのだろうか、彼らは正確にその技を解説する。そこまで解れば、面白いのかも知れない。しかし、一般の人がそこまでになる事は多分無い。そこが冬季オリンピックの限界かなと思うわけだ。

しかし、個人的に楽しみにしている種目に、カーリングとボブスレーがあって、この二つは解りやすい競技でもあるし、前回、代表に選ばれておりながらも出場選手枠の関係で出られなかった選手のリベンジが叶う可能性のある競技でもある。「出場する事に意義がある」という見方に異論を唱えるものでは無いが、競技の楽しみ以上に参加している人のドラマの方に面白みを感じる。そんな楽しみ方もありなんじゃないか?と思っている。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-13(Mon) 10:13:32】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
夫婦の在り方・・・(熟年離婚について)
実に深遠な問題が浮上している。冬枯れしてしまう花では無いが、次々と関係に終止符を打つ周囲の人々の事である。その内一人は、かれこれ十年近く、付かず離れずのお付き合いをさせていただいている大先輩が居られて、このほど退職されるということで、田舎に引越し、隠居をなさりたいと仰っていた所だったのに、突如の熟年離婚を持ち出されたという話。

夫婦仲がそれほど悪いとは思えなかったのだが、最後に言われた台詞を聞いた。それは、土田世紀著の漫画「編集王」で文芸誌の編集をしていた編集者が熟年離婚を切り出される瞬間と同様の台詞であった。

「私はあなたと血のつながりも無い他人で一人の女なのよ」


その台詞に含まれる意味合いは深いものなのだと思う。結婚生活が「心の寄り合い」から始まったにせよ。「一枚の紙」から始まったにせよ。確かに、赤の他人が同居している状態ではあって、それは自然な事とは言い難いのかもしれない。数年前、「別居婚」であるとか、「通い婚」であるとか、色々な方法論が展開された時期があって、それはそれで間違いでは無いとも思うが、根本的な解決にはなっていないように思える。この問題に比すれば、夫婦別姓問題なぞ小さな問題なのでは無いかとも思える。夫婦別姓程度で済むのならば、その症状は著しく軽いものであるという見方が成り立つからである。別々の姓を名乗る程度で上手くいくなら幾らでも別姓を名乗れば宜しいと私は思っている。

東京時代にお世話になった飲み屋のママ(といっても、それほど歳の差は無いが)と話をしている時の印象的な話を聞いた記憶がある。現在のご主人(すなわち、マスター)と結婚する前に付き合っていた人(この人は二駅ほど離れた場所でバーを開いておられる)が居て、金融機関や公的機関に代理で手続きに向かった時、その付き合っている彼の姓で呼び出される事が大変に嬉しかったという話である。男性の場合、結婚で姓が変わる事は女性に比して少ない事もあって、それほどの感慨は無いが、女性にとっての感慨はひとしおなのだろうなと思う。そこまで思われて、男のほうも悪い気はしないのではないか。

フェミニストの方々の非難は覚悟の上というか、フェミニストの一方的な意見を聞く気はあまり無いのだが、あえて言わせてもらうが、「家に入る」「家に嫁ぐ」という観点での見方でなく、単純に「好きな相手と同じの姓を持つことへの喜び」というのは確かにあるように思う。結婚生活を送る上でも重要な事に「価値観の近さ」が良く挙げられるが、それはつまり「共通点が多い」という事なのではないかと思う。「似た者夫婦」という言葉もある。一緒に生活をしているから似てくるのか、元々似ている相手を選ぶのかという事も解らないが、確かに、周囲を見渡せば夫婦で正確や行動が似ているというのは良く見る傾向だ。そして、そんな夫婦は結構上手くいっているようにも見える。大概にして、知的な水準の高い「夫婦それぞれの立場を尊重する」という目標を公言しているような家庭での熟年離婚のケースが多い傾向があるようにも思う。立派な目標だとも思われるし、それはそれで重要な事でもあろうが、必ずしも、その事がプラスでは無いと言う事なのかもしれない。

今回、話を聞いた大先輩は、離婚に同意され、財産を半分ずつに分けた。持ち家も売却されたと聞いた。ご本人は結局、田舎での隠居を止めて、現在の会社からの再雇用制度を受け入れるということだ。六十歳という年齢を迎えての一人暮らし。いつかは死別という形での離別もありえようが、意図しない形での一人生活はさぞ辛かろうと思う。前回のクールでも同様のテーマのドラマが放送されていたような気もする(未見である)が、何をもって夫婦とするかは、大きく形を変えて、思っている認識と現状のズレを露見する形で身近な人達にも影を落としている気がする。再出発するにあたって、我が身を省みた時、これまでの誰もがそうなる前に去ってしまった事を思い出せば、「一生一人身」が性に会っているかも知れぬと思った。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-12(Sun) 16:52:11】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
甘味語り・・・(地元の甘味について)
甘味好きであることは何度か書いている。気色悪いと言われるほど微妙な甘味を良く食べている。例えば、実家の冷蔵庫に私専用の小豆ときな粉が入っている。これは、思いついた時に餅や団子の類に付けて食べるために常備している。誠に重宝する。和菓子も大好物だが、洋菓子も相当に愛していて、新店舗のチェックは欠かさない。福岡県にいることで、気に入っていた洋菓子の店に足を運べない事は結構なショックになっているのだけれども、この福岡の片田舎にも良心的な営業を心掛けている小さな洋菓子店とパン屋を三店舗見つけた。その店について少しばかり書く。

洋菓子店は、スーパーの裏手マンションの一階に店舗を構えてい、種類は少ないが一つ一つの菓子が厳選された材料で丁寧に作られている事が解る。「最も自信があるのは、どれであるか?」という質問に「チョコを使ったケーキです」と店番兼パティシエの女性が答えた。事実、上質なガナッシュを使っていることは、食べれば直ぐに解った。他の菓子の中ではマドレーヌがダントツに美味い。誰の小説であったろうか、マドレーヌが作品に使われた小説があったように記憶している(大沢在昌だったか、藤原伊織だったか、ハードボイルド系に属するミステリー作家の作品であったと思った)。古めかしいお菓子であり、若い人達(特に、十代の人達)にはあまり魅力的には映らないかも知れないが、私には大変な懐かしさを伴う菓子である。小学生ぐらいの頃、買ってもらったマドレーヌの美味さというのは、別格だった覚えがある。私の世代でも、洋菓子が高級なモノではあった。少なくとも今よりは。

パン屋の内の一軒は、寂れたJRの駅の前に小さな店舗を構えてい、出勤時に若い女性が良く買っている。一対九の割合で女性が多く、入りづらいことおびただしいのだけれども、チーズを使ったパンが美味く。JRを利用して出勤する時には、立ち寄る事にしている。店主は若い夫婦で、二人して同じ店で修行を積み、独立するにあたって、地元を選んだらしい。私よりも若い二人が早朝からパンを焼き、店に出る。確かな技術も持っているだけでなく、若さ溢れる取り組み(果物を使ったパンが多数ある)も買い手にとって嬉しいものではある。

次のパン屋は自動車整備工場の脇に豆腐屋と一緒に店を出している。元々はその自動車整備工場の場所は豆腐屋であったらしく、豆腐屋の息子氏が自動車整備工場を始めるにあたって、豆腐屋の規模を縮小した。そこに嫁いできた息子氏の嫁が趣味のお菓子作りがこうじて、店を出すに至る。という訳を聞くとなかなか楽しい店なのであるが、採算を必要以上に計算する必要の無い。妥協を許さぬ姿勢は高感度が高い。この店の焼きたてのバケットは相当美味い。そのままちぎって食べても美味い。個人的には柔らかすぎるバケットはあまり好みではないので、適度な固さと強めの塩分を感じさせるこの店のバケットが好きなのである。

次に、某峠道を途中で折れた所にヒッソリと営業しているパン工場があり、この工場では、特定の時間(一日に三回ほど)に焼きたてのアップルパイを買う事が出来る。アップルパイといえば、関東では特に近年急激に店舗数を増やした「らぽっぽ」のアップルパイは価格も手頃であり、良く買っていたが、この店のアップルパイの味はそれらの店とは一線を画する。いわゆるミルフィーユのようなパイ生地では無く、アメリカンパイに近いしっとりとしたパイ生地で、自家製のリンゴの砂糖漬け(紅玉使用)を大量に織り込んであり、ナツメグ、シナモンなどのスパイスを使ったパイである。日本ではあまり一般的にではないが、特にアメリカで出されるアップルパイに近い。

ちなみに、今日はこっそりと前述の駅前のパン屋で貰ったパンがある。まだ、店頭には並べていない試作品であるらしい。是非、感想をということでいただいた。どうやら、ベーグルに挑戦したいという意図があるらしく、ブルーベリーを生地に練りこんだベーグルであるらしい。何処か他の店でも見たような組成のベーグルだが、若い二人が作り出したのであるただの真似ではなく、何か工夫がされているに違いない。大きな期待をもって居る所なのである。店の詳細を知りたい方、購入したい方はご連絡いただければ、連絡方法をメールします。コメント欄にでも書き込んで下さい。別に彼らから、宣伝を頼まれたわけでは無いけれども、この美味は隠すにはモッタイナイとは思うので。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-10(Fri) 18:24:48】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
モブログ実験
モブログと言うものについて実験してみようと思って、色々と携帯をいじってみたのだけれど、なにぶん最近携帯を変えたばかりで、何をすればどうなるのか、いまいち解っていない。

元来、携帯電話が必要以上に多機能になることに懐疑的で、それほどこだわりなどなかったので、五年近く同じ機種を使っていたのだけれど、さすがに、長く使いすぎて不具合が多くなってきたので、思い切って変えてみた。思ったよりは、安く悪くない。ただ、機能の半分も使いこなせていないようだ。

携帯電話やPHSを使い始めたのは早いほうだと思うのだが、i-MODEの辺りで完全に乗り遅れた。機械には強いが、携帯電話だけは弟嫁や母親にも劣るほどの知識しかない。良い機会なので勉強を兼ねてモブログ機能を使っての更新も始めることにする。

それにしても、たったこれだけをタイプするのに二十分は掛かっている。まだまだ、先は長そうだ。


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携帯 | 【2006-02-09(Thu) 00:03:22】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
好まざる宴席・・・(付き合いについて)
「酒好きでタバコ好き」という一歩間違えたら、どうしようもないおやぢな私ではあるが、酒乱ではないし、喫煙マナーも基本的には守っている方である。それでも、嫌煙家の「それでも迷惑だ」という声については何度か愛煙家の立場から述べた。サーチエンジンからの検索で結構な件数が検索されているところを見ると、喫煙に関する話題というのは、世間的な関心の高い話題であることは間違いのないことのようだ。この問題に結論を出す事は不可能であるとも思えるが、一方的に攻められるいわれは無いので、たまに話題にしようかとも思うわけだが。

で、今回はもう一方の趣味である所の酒について書く。近頃は酒量が減ったというのは前にも何度か書いたが、近頃、その傾向がますます強くなっていて、毎日の晩酌も危うい状況になりつつある。毎日欠かさずに晩酌をしていた頃を思えば、今の飲酒量などスポーツ後の水分補給にも満たない程度の酒量である。缶ビールの栓を抜かない日すらあるし、日本酒も焼酎も同様で、年明けに開けたビンがまだ空になっていない。年始に友人からご恵送いただいた「銘酒・菊姫」を気付かぬうちに母親の手で料理酒にされていたという事もあって(泣)、実に充実感の無い飲酒生活となっている。我が家(今は実家だが)では、晩酌を毎晩行なうのは母親のみになっていて、母親のアル中説までまことしやかに囁かれたが、仕事に復帰したところ、酒量が減ってきている所を見ると、アル中では無かったようではある。「良かった」と家族全員が胸を撫で下ろしたことは秘密だが。

しかしながら、自分の意思での飲酒は減ったものの、勤め人になった事で、これまで以上にいわゆる「飲み会」の類への招待が増えていて、自分の意図しない飲酒機会は増加傾向になっていて、気の合わない人達、または、仕事上以上の付き合いをしたくない人々と酒席を共にする機会だけが増加している。これは精神衛生上、誠によろしくない。そもそも、どんな人とも合わせられるというだけで、人物に対する好悪がハッキリとしていて、それほど協調性の無い人間なので、自ら酒席を共にしたいと思う友人など数えるほどしか居ないのである。そんな中での宴席、酒席はただの拷問なのである。

先日のこと、現在在籍する会社の同部署の人々での親睦会のような宴席が開かれて、参加することになった。福岡県は長く離れていたとはいえ、地元なのである。無論、美味い店も知っているし、楽しい店も知っている。それなりに店に関する知識はあるのだけれども、そのどれにも属さない一軒の小さな焼き鳥屋に連れて行かれたのである。会社からほど近い場所にあるその店は一見しただけで、期待できない店であった。近いイメージとしては、商店街のラーメン店を想像していただきたい。古くから営業しているあまり美味くないラーメン店である。ラーメン以外にも、餃子とか、チャーハンとか、野菜炒めとか置いてあるような店だ。入り口上のひさしは、臙脂というか、赤茶色をしたビニールの幕がはってあり、白抜きで店の名前が書いてある。そんな焼き鳥の店である。

店に入って、正面、奥に座敷があって、テーブルには、透明のビニールシートが張ってある。触ると少しばかりベタ付く感じで、テーブルに手も付きたく無い。新入りの事ゆえ、食べたいもの、飲みたいものの注文なぞ出来るわけも無く「中生お願いします・・・」としか喋っていない。他の方々は常連であるらしく、色々と注文をしていて、次々と料理が出てくる。

無論、焼き鳥屋であるから、焼き鳥が中心なのであるが、福岡・博多の焼き鳥というのは、全国的に見ても、特徴的な部分がいくつかあって、まず、"豚バラ""砂ギモ""皮"辺りが中心になりがちで、関東での"ネギマ""正肉"といった部分をあまり食べない。そして、焼き鳥の皿には無料でキャベツがひいてある。このキャベツにはタレがかかっていて、近頃ではスーパーでも、「焼き鳥キャベツのタレ」なぞという名前が付いて売っていたりする。で、焼き鳥の基本は塩である。タレをつけるのは、"レバー""ツクネ"の二品ぐらいである。多少の偏りはあるだろうけれども、概ね、これを読んで頂けば、福岡出身、福岡在住の方々の賛成をいただけるとは思うのだが、これら全てを裏切る焼き鳥が登場してきたのである。

全ての焼き鳥に"タレ"がつけてあり、しかも、下にキャベツが敷かれていない。多くの焼き鳥屋ではこのキャベツは無料であるが、この店では別料金有料の上にキャベツのタレがかかっていない。

「拷問だよ・・・。これは・・・」


と頭の中で想像していると、同席の皆様は「美味い」を連発。続々と追加をしつつ、酒食が進んでいる。誰一人、当惑中の私を振り返る人も居ない。私の目の前には、最初に取り分けられた焼き鳥(タレ付きの正肉)二本と微妙な冷え加減の中生が半分ほど残ったままであった。聞いたフリをしつつ、相槌マシーンと化して、この拷問をやり過ごそうと努力に努力を重ね、二時間の時間を耐えた。テーブルの下でこっそり携帯電話を操作し、五分後に電話をくれる様に友人に依頼をする。

早く帰りたかった。疲れているのである。不味いのである。寒いのである。さらに、家まではその店から、一時間以上、掛かるのだ。それぞれに腹もくちくなったらしく、上司の号令で福岡県随一の盛り場、中洲へと繰り出そうなどという意見も出ていたが、もう、帰りたくてしょうがなかった・・・。そこへ、先ほどメールで依頼した友人からの電話が入る。

「た、たた、助かった・・・」


出来る限り、深刻な話をしているフリをしつつ、電話対応を行い、急用が出来た事を詫びて、逃げるように駅に向かって帰った。こうして、現在、所属する会社での最初の酒席が終わった。この会社に在籍する限り、この拷問に耐えなければならないというのは実に憂鬱である。まだ、入社して幾らも経っていないのに、転職情報サイトからのメールに、目を光らせる毎日なのである。割り切りは大切なことなのかも知れぬが、人間である以上、好悪の感情はある。それを全て割り切るほどには、人間も出来ていないし、そこまでして、必死になるほどの価値も見出せていない。世の仕事など、そんなものなのかも知れぬとも思う。それらも含めて、満足できる仕事が出来ているとすれば、それは相当に幸せなことであるなとも思った。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-08(Wed) 21:33:58】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
モチベーションについて・・・(フリーと勤め人)
モチベーションという単語も、テンションとかと同様に既に十分に認知された英単語と言って、差し支え無いように思う。意味としては、「動機付け」というのが正確な意味だったように記憶しているが、「意欲」「やる気」といった意味合いで使われる事も多い言葉になっている。

で、しばらく前に書いたが、長く続けてきた「フリー生活」(フリーターとは違います)に、最近、ピリオドを打った。つまり、勤め人となり、所属も明らかになったし、名刺も個人の名刺では無い、社名の入った名刺をいくらでも貰える立場になった。不景気、就職難の折ではあるし、選ばなければ仕事はあると言い続けて来たが、それでも、ハローワークにたむろする方々には申し訳ないが、極アッサリと就職して、「雇われの身」となったのである。本業は、金型とか、精密部品などの製作、および、機械設計らしいのだけれども、出自は工業系ではありながら、制御系に対してはほとんど素人と言って良いくらい何も知らないので、本業には何の役にも立てそうには無いのが実情で、ほとんど社内のネットワークの管理とか、社長が趣味で受けてきたWeb系の仕事とか、そういった仕事を処理する毎日である。格別に仕事に文句はないし、社長が存外と顔が広いらしく色々な仕事を持ってくるので、退屈もしない。しかし、社内の雰囲気にどうしてもついていけないのである。

本来は、どちらかと言えば、同僚とは仲良くやっていきたい方なので、手広く色々な話題を振ったり、打ち解けるための努力は欠かさずに行ないたい方なのだけれども、どうも今回はそういった気分が起きない。というのは、社員全体のモチベーションの低さに由来するのだ。決して、大きな企業ではないが、地元ではそれなりの規模の企業ではあって、取引先にも大手が入っているし、業績そのものは規模を考えれば良い方だとも思えるので、社長以下、経営陣はそれなりに優秀ではあるのだろうし、本業に携わる人々の技術力も高いのだろうとは思えるのだけれども、私が所属している「業務部情報システム課」(懐かしいですな。情シスとか、情シとか略するね)のモチベーションの低さは半端ではないのであった。

まず、仕事が遅い。私も別に仕事が速い方だとは思っていないが、一日で十分に終わる作業量に三日以上の日数を掛けてくる。しかも、残業が大好きな人々が多い。他の部署が早々に帰宅するところ、私の部署だけは、二時間、三時間の残業は当たり前らしい。何が面白くて残業しているのか知らないが、彼らは残業を好きでやっているとしか思えない。

次に、一部フレックスが導入されているとはいえ、出社が遅すぎる。基本的には始業時間は九時である。打ち合わせ等で、直行する場合や出先での作業が必要な場合は仕方ないが、社内でのミーティングの日にまで、昼近くにならないと誰も出勤してこない。私と課長だけしか席に居ない事など日常茶飯事と言ってよい。一度聞いてみた事がある。

「課長、誰も居ないの問題じゃないですか?」
「フレックスだから仕方ないよね。ある程度は」
「ある程度って、打ち合わせがあると解かっている日に来ないのは問題でしょう?」
「でも、時間前だし。時間までには揃うから・・・」

それ以来、課長とはまともに話をしていない。とにかく、「ぬるま湯」につかっているようなモチベーションの低さなのである。元々、この部署は無かった部署だったのだそうである。社長の思いつきで始まった仕事が段々と取扱量が増えてきたということで、「課」を作ったという事らしい。選考基準がイマイチ不明だが、中には、ワープロが打てるだけの女の子も居る。

「ここは庶務課では無いし、文書処理センターでも無い」


と思うわけだ。しかし、そんな課の様子に誰も突っ込みもしないし、仕事振りにも文句をつけてくるわけでもない。不思議で不思議でしょうがない毎日なのである。

「これがフリーと雇われの差かな」とも思う。フリーを一度経験すると、明日も解らぬ状況を一度は体験する羽目になるのだ。どんなに売れっ子のライターやデザイナーも一番最初から売れっ子では無かったわけで、多少は不安定な時期を経て、そこから実力で這い上がってきている。実力が伴わなければ使われなくなるという危機感は常に持ち合わせていなければならない。それすらも、勤め人であることが失わせるというなら、大問題なのでは無いかと思うのだ。全てがそうであるとは言わないが、少なくとも久しぶりに企業の内部は緩いものだったのである。

私自身は今日も既に帰宅しており、「今週末までに仕上げて下さい」と先週言われた分の作業は終了してしまった。明日からは他人の作業を手伝わねばならない。周囲の人間の実力を推し量る良い機会なので、じっくりと見させていただくとしようか。

今からは私個人の仕事時間になる。こちらの方が余程に時間も労力も掛かる仕事なのだが、時給換算では雇われ仕事の方が高くなるかもしれない。少しばかり納得がいかない気がするのである。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-06(Mon) 18:04:23】 | Trackback:(0) | Comments:(1)
節分について・・・(豆まきと恵方巻)
昨日は節分であった。一年の内には色々なイベントが当然あるわけだが、その全てのイベントを完全にこなしている人は稀有なのでは無いかと個人的には思っている。出来る限り、参加しようとは思うが、それは不可能に近い。冬至には、柚子湯に入って、カボチャを食べるとか、子供の日は菖蒲湯だった気がするし、無論、大晦日には年越し蕎麦を食べるし。そんな中で、子供の年齢が大きく関係するイベントがこの「節分」で、小さな子供が居る家庭ではまず間違いなく、節分が行なわれているモノと判断する。

そもそも、節分の由来は、中国の故事に則ったもので、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの季節の変わり目の前日を「季かれ目」として考え、「節分」と相成ったという事だったと読んだ気がする。特に、この立春の前日を節分と言うのは、旧暦の正月にあたる立春前ということで、現在の大晦日に近い感覚なのだと考えれば宜しいらしい。現在の暦とは違っていて、どうも説明されてもイメージがわかないが。

豆まきは「厄落とし」(中国では追儺(ついな)と言う)の意味で、悪い病気にならないようにという意図があっての行為である。掃除が大変だとかそう言う事は言ってられないわけだ。陰陽師では無いが「呪」という観点から考えると、一見意味が無い行為であっても、そこに名前がついて風習化してしまった以上は、やらないよりはやった方が良い気がして、今年は実家に居る事でもあるし、豆まきを行なう事になった。近所のスーパーで「豆まきセット」を購入して、「一人豆まき」を行なった。歳の数だけ食べると言われるが、この歳になると既に味気ない大豆をポリポリと食べるには辛い数になってしまうが、ルールはルールである。歳の数だけ食べた。五十代、六十代、七十代の人々も歳の数だけ食べるとなると結構辛いのでは無いかとも思うが。

続いて、近年、コンビニなぞでも、予約受付をしている「恵方巻」。関西の風習であるというが、我が家は「似非関西文化」の家であるから、この習慣が元々無かった。しかし、弟が何を思い立ったか、自分は食べないくせに(弟はいなり寿司以外の寿司を食べない)、太巻きを買ってきて、人数分置いていったので、食べてみる事にした。その方向を向いて、食べては見たが、あんな巨大な太巻きを一本食べられるわけも無く。半分程度で、家族全員が戦意喪失。見事に食べかけの太巻き残る始末となった。元々、モノが捨てられない体質の母親がその太巻きを捨てられるわけも無く、食べかけの太巻きは翌朝の朝食の食卓にも進出してくる事になったのである。こうして、今年の節分も幕を閉じる事になったのである。早速、母親が風邪をひいているのは一体どうした事か?と思うわけだが。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-04(Sat) 15:14:52】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
村社会への加入・・・(SNSデビューについて)
前に批判的な意見を述べた事があるが、Mixiに加入した。前から何度か誘われてはいたものの、これまでは参加した事が無かったが、今回の招待で招待数が10を超える数にもなったことでもあるし、SNS内ではBlogを書くが、パブリックなBlogを書かなくなった人も増えてきた事もあっての加入とあいなった。

今も、SNSに対しての「村社会的である」という批判をやめたつもりは無いが、そういった村への加入と読みたいのに読めなくなった人々のBlogを読む事を両天秤に掛けた時、明らかに読めないことへの欲求不満の方が大きい。よって、参加した。参加した後も、その事を周囲の人にはまだ告げ切れていない。本来は、これまで招待してくれた人達へも連絡なりをする必要があるのだろうけれども、まだ、そこまでは至っていない。まだ、自分のページも作り込んでいない。どのような方向へと持って行くべきかについて考えがまとまらない事が大きい。

確かに、このBlogも友人知人には格別に隠しているつもりは無いので、知っている人も少なくないし、偶然に見つけたという人も居るしで、それなりには知られているのだけれども、自分から広めようという意識はあまり無かったように記憶する。ランキングサイトに登録している時点でそういう意図はあるんじゃないか?という事も言えるのだけれども、取り立てて、友人や知人にメールでのお知らせなどした事は無い。Blogでは無い、広範囲に渡る趣味のページを運営していた時は、それなりに広める努力もしたし、常連と言われる方々も居て、一日に数千のアクセスを稼いでいた時期もあって、それはそれで楽しいのだけれども、人が集まれば意見の相違やらは起こるので、当然、揉め事も完全に無くすことは出来ない。当事者間での解決をしてくれれば、何の問題も無いがうまく話がまとまらない場合も少なくない。そんな揉め事が嫌でサイト運営から手を引いた。今、Blogでテキストを書いているのも、無論、書きたい欲求があるからで、誰のために書いているわけでもない。読んでくれた方々には感謝もするが、基本的には、自己満足の世界で留めているわけで、広範囲に渡って読んでもらおうと思えば、テーマ選択やら、文体やら、考える事はたくさんあるのだ。

この点に、SNS内でのサイトを作れないことが集約されている気がする。つまり、広範囲に向けて、書いたとしてもそれは閉じられた空間内でしか読めないモノではあるので、読んでくれる人達がこのBlogよりもさらに限定的になってしまうこと、さらに、読み手が限定されている以上、書くこともまたそれに合わせたものになるのではないかということだ。限定されていることは必ずしも良い事とは言えないと思っている。SNSに参加していようが、参加して無かろうが、書き手としての魅力には何の影響も無いわけで、面白いテキストを書く人は沢山居る。しかし、どんなに面白くても、加入者しか読めないテキストの価値は誰もが読めるテキストと比較して、明らかに落ちると思う。

自分の素性を明かして書くことへの危険性はもちろん承知しているのだけれども、Mixiには本名で登録しているし、これを機に他のSNSへも加入しようと思っているが、それも全て本名で登録するつもりではある。SNSは本名で登録することが前提なんだろうとも思うし。現実に繋がりのある人々同士の繋がりをネットまで持ち込んでいるわけだから、既に私の本名や氏、素性は知られていることを前提に参加しなければならないのだろう。それらのデータを隠していたからこそ書ける事もあったわけだが、明かしてしまった後に下手な事を書けば、被害や不利益を被る人が出てくる可能性も考えなければならない。内輪でのやり取りであるからこその注意点もあるのだということだ。

とりあえず、様子見をして、何を書くべきかの判断をしようと思う。参加してみて、改めて思ったが、慎重になる必要を強く感じたのである。


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周辺雑記・日記 | 【2006-02-01(Wed) 14:05:12】 | Trackback:(0) | Comments:(2)
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