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つっちー

主筆:つっちー
九州方面某田舎在住。
三十路男。偏屈。理屈屋。
人生ザッピング。
最近、妻に逃げられました(マジ)。

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誰も責任は取れない・・・(北九州市・小学5年生自殺)
しばらく、忙しくてなかなかエントリを上げる時間が無くて、久しぶりのエントリーになる。自分が止まっていても、世間が動いている事は間違いないことなのである。

北九州市というのは、福岡県、第二の都市であり、政令指定都市でもある。かつては、鉄鋼業、造船業などの重工業で栄えたが、今は一部のロボティクスなどの産業はあるものの最盛期の隆盛はない。住人の年令比も半数が六十歳を越える高齢都市でもある。そんな背景の街で事件は起こった。

小学五年生の男の子が自殺。イマドキの小学生の死生感に関して、子供も居ないので知る由も無いが、自殺とはただごとではない。いじめを苦にしての自殺は、後を絶たないし、物事の低年齢化はあらゆる物事に適用されているようにも思える。それを考えれば、そのような低年齢での自殺もありえることだとは思った。この時は、詳細については読んでいなかったので、このスタンスで書き始めたのである。しかし、詳細を読めば、その中身は全く異なる事であった。ご存じ無い方は、どこかのサイトで概要をお読みいただいてからが良いかもしれない。以下は、概要をご存じのモノとして書く。

体罰の境目についても、書いた記憶は有るが、どちらかといえば、体罰を含む、指導について寛容で「ありか、なしか」でいえば、「ありだ」とは考えているが、そこには十分なケア、フォローありきの事ではある。その点の不足があったことを学校側も認めていた。確かに、一人一人を完全にフォローすることは困難なことかもしれないが、それでも、最大限の力で取り組まねばならない問題ではあるし、少子化が言われて久しい昨今、それほどの人数を一人で受け持っているとは思えない。一部の保育園や病院では、保育士や看護師の人数が足りないことが問題になっていたが、教師の数が不足しているという話は聞かない。毎年、大学の教育学部で教職課程修了者が採用試験に落ちて、教師になれないという話を聞くぐらいだから、足りているのだろうとは思う。

自分が小学校の頃を思い出すと、たとえ、体調不良でも、忌引きでも、下校時間でないのに校門をくぐるという行為に及ぶということに違和感があったように思う。今でも、その感覚は学生(特に、小中学生)が持ち合わせていると信じている。
学校のフェンスは一種の境界線であり、学校という閉じられた空間への入り口では無かったか。いくら学級崩壊が話題とはいえ、空間そのものまで否定しているわけではあるまい。

違和感を忘れるほどに担任教師の発言の方が、彼にとってショックだったのであろうか。かなり、厳しい指導にだったのは、想像できる。その後、飛び出した彼の後を追うこともせず、緊急連絡も家族にしなかった理由が解せない。もし、いつものことだと思ってのことなら、そのことがおかしい。学校という空間を作り出すべき教師がそれを否定しているなら、学級崩壊の前に、学校崩壊が始まっていると言って良い。そして、その原因は生徒だけでなく、教師側にも責任があるということになる。根は深いことになる。教師側で学校と言う閉鎖空間を維持管理する能力が無いのなら、それは大きな問題であると言えるのではないか。

如何なる理由があろうとも、自ら命を絶つことが罪悪であるとは言わない。良いこととは言わないが、誰にも、絶望の瞬間はあるのだと思っている。ただ、今回はそうでなく、意趣返しなのではないかと思えるふしがあるのだ。「死んでやる」と言いながら学校を飛び出した様子が目撃されているという。意趣返しで、自分の命を経ったというのなら、それは一種の犬死になってしまわないか。最初に書いたように、イマドキの小中学校生の死生観には疎いが、一歩先まで考えることは幼い彼には出来なかったのかもしれないとも思う。

残念な事件である。深刻な事件である。そして、学校教育のシステムが内包する欠陥を指摘する事件でもある。関係者は猛省するべきだろうし、踏み込んで方向修正へと進んでもらわねば、誰もが我が子を学校に預けることに躊躇する可能性もある。

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時事問題 | 【2006-03-21(Tue) 14:46:47】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
いまさら騒ぐなよ・・・(駒大苫小牧高校問題について)
私は強烈に愛煙家であるあえて、フォントを太字とさせていただいた(笑)。しかし、別に高校生に喫煙を勧めるつもりは無い。ただ、そういう事実はあることは誰もが知っている事なんじゃないか?とも思う。

駒大苫小牧高校といえば、あまり、高校野球に興味が無くても、名前に聞き覚えはあるかもしれない。ここ二年ほど、高校野球界最強の学校である。実際、私の記憶では高校野球において、北の学校が強いという印象が全く無くて、恐らく、この駒大苫小牧高校以前は、優勝旗がそこまで北に行ったことは無かったのではないかと記憶している。そんな意味でも、恐らく、地元に限らず、北海道・東北地方の方々の期待というのは相当なモノだったのではないかと思う。そんな期待を担った彼らの内、三年生部員が居酒屋で飲酒喫煙したということで補導された。無論、未成年者の飲酒、喫煙は補導対象であるから、それは当然のことではあろうけれども、その事によって、春の甲子園を出場辞退するというのが学校側から発表された。確かに、不祥事は二度目である。しかし、一度目は、部長の体罰問題であった。これは部員たちには何の落ち度も無い問題であるから、カウントするべきではない。今回の飲酒喫煙にしても、既に、事実上、引退している三年生のした事でもあるし、「連帯責任を問わない」というのは、高校野球連盟(通称、高野連)の公式見解でもあったと思うので、出場辞退は行き過ぎではないかという気が強くしている。今回は、学校側からの申し入れであったというし、高野連側から、出場辞退を受け入れない方向で申し入れがされる事を期待している。それが成されれば、高野連の株も上がるというものだ。

そもそも、高校の運動部の喫煙人口はそれほど低くは無いと思っている。そろそろ時効が近いので言うけれど、喫煙者の多くが二十歳前から喫煙しているし、二十歳前にアルコールを口にした事が無い人というのは、下戸の人を除いて、稀有なのでは無いかとも思える。細かに規定し、違反を取り締まるのであれば、出場辞退しなければならない学校ばかりになるのではないか?誰もが知っていて、表沙汰にならないだけなのであろう。恐らく、「運が無かった」という見方をしている人が大半を占めるのではなかろうか?さらに、「大人の責任」を問う見方も出来ると思う。その居酒屋の店主や店員は確認を怠ったのである。五、六年前の事。友人達と居酒屋に行ったとき、その内一人が、とても童顔であって、男性でありながら、女性に見えるような人であったので、入店前に身分証明書の提示を求められた。この程度は確認は然るべきであろうということだ。

ところで、高校野球をマッタリと観る事も減った。夏休みの風物詩という印象がどうも強い。母校が甲子園常連校であれば、別の興味も沸くのかもしれないが、私の母校は毎年一回戦すら勝ち残れない弱小校であるので、応援に駆り出される事も無ければ、寄付金を要求された事も無い。本当に、甲子園に出られるのなら、一口ぐらい寄付金を寄付しても良かろうとは思っているのだけれども。



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時事問題 | 【2006-03-07(Tue) 00:41:48】 | Trackback:(1) | Comments:(1)
単一民族国家・日本・・・(滋賀県幼児殺害について)
日本が単一民族国家である理由は、海に囲まれているからとか、江戸時代の鎖国が原因だとか、色々と考えられる事は考えられるが、そんな事はともかくとして、とりあえず、単一民族国家として成っている事になっている(ちょっと日本語おかしいな)。しかし、前にも書いたけれど、九州に帰る前に住んでいた東京都新宿区では、アジア系、中東系の人も多くいたし、とにかく、雑多な人種の人々が街を歩いていたし、そこを生活の基盤にしていた。

そういった街に住み暮らすということは、取りも直さず、慣れるということに繋がる。最初は、正直言って、出来るだけ彼らを避けようとしていた節もあった。友人連れや家族連れの場合は特にそうだ。一人なら、ちょっとやそっとの揉め事を解決するのは苦ではないが、自分以外の人がそれに巻き込まれるのはよろしくない。よって出来る限り避ける事を考えていたのだけれども、慣れてくるにしたがって、顔見知りもできたし、話もするようになっていった。東京都知事の「三国人」発言などは論外だが、外国籍というだけで、微妙な色眼鏡で見てしまいがちなのは、これだけ国際化と言った所で、特別に変化があったようには思えない。そんな事は今更言う事でもない気もするが。

しばらく前に、地方の農家などで、東南アジアから嫁を向かえる話を書いたけれども、無論、留学してきた人や働きに来ている人と恋愛結婚する人だって居て悪くない。国際結婚は難しいと言うのは、よく聞く話だが、フィリピン人女性と結婚した先輩がいて思った以上の大変さに愚痴をこぼす事も多い。国によって差があって当たり前だし、日本で当たり前の事が海外ではありえない事であるというのも多くあるだろうと思う。日本国内でもそうだ。例えば、喫茶店では粘っている客を帰す時「コブ茶」を出す。「コブ茶」を出されるまで粘るのもどうかとは思うが、それを察して帰ればよろしいだけのことで格別恥ずべき事ではなかろうし、京都の「ぶぶ漬け」も(食べて良いのか、悪いのか知らんが)察して帰ればよろしいのだと思っている。私の年齢でも、これらの事を知らぬ人は少なくない。世代差や地域差によって大きく異なる文化はあるということだ。

で、例の滋賀県の幼児殺害事件である。一般に報道されている以外の情報ソースから話を聞く機会を得た。才媛ではあったようである。五ヶ国語を解し、通訳など、いくつかの仕事をこなしていたという。評判もそれほど悪くは無いという事らしかった。才媛ゆえの苦しみもあったのでは無いか?とも思えてならない。中国という国では、長く「一人っ子政策」がとられていた事は広く知られている。すっかり忘れて、中国人の方に「兄弟は居ますか?」などと失礼な質問をした事もある。彼は天津にあるエリート校に通っていて、日本語が話せた。そこに通えると言う事は、成績がすこぶる優秀であるのは言うまでも無い事で、一族の期待を一身に背負っているという場合が多い。彼の立身出世が一族の繁栄に繋がるという事である。日本とて同様で、努力を積み重ねて、立身出世を果たすというのが、誰しもが思う成功の形であった時期もあった。今回の事件は、そんな思いの裏返しなんじゃないか?と思えてならない。予測の域は出ない。けれども、彼女が思う、あるべき形には到底近づけなかったのではなかろうかと思う。

景気回復の兆しがあるにせよ。昔ほど、日本に魅力があるとは思えない。恐らく、韓国や中国の経済特区(上海とか)の方が魅力的なんじゃないかとも思える。一族の繁栄を目標に努力した才媛が日本にやってきて、結婚し、家庭を持つ。出産し、子育てする。その日常と一族の繁栄には大きな隔たりがあるように思う。

「子供の為にならないと思った」


うがった見方かもしれないけれど、それは自分の為にならなかったんじゃないのか?と思えてならない。



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時事問題 | 【2006-02-21(Tue) 22:45:57】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
境界の曖昧さ・・・(知的障害者に対するセクハラ)
ハラスメントについて一歩踏み込んだ所を考えてみる。ハラスメントといえば、セクハラ(セクシュアルハラスメント:性的嫌がらせ)が一般的だが、セクハラに限らず、当人の属性を対象とした嫌がらせというのは多々ある。例えば、[痩せている/太っている]という二択。現在の世情では、概ね、痩せていることで非難を浴びる事は無いが、太っている事による非難は大きい気がする。二十年も前に遡れば、恐らく、戦後の食糧事情が悪い時期を過ごした人々(特に現在、70代程度の人が中心かな?)の思いもあってか、一定の年齢に達した人が多少、肉付きが良いのは「貫禄がついた」「恰幅が良い」などとそれほどネガティブな言葉で語られる事は少なかったのではないかと思う。確かに、食糧事情や生活環境が大きく変わった事で今度は肥満に対する非難が大きくなっている事も事実であるから、それは仕方の無い事ではあろうけれども、基本的に太っていても、痩せていても、当人の自由なのであって、それだけの理由で不当な扱いを受けるのは行過ぎだとは思っている。別に、自分が太っているからというわけではないと言ってみる。

同様に、[身体不自由/五体満足]という二択もある。身体障害者という言葉があまり好きではない。「身体不自由」という言葉を基本的には使いたいと思っている。しかし、東京の下町で使われている東京弁には今では放送禁止用語になっているような言葉もたくさんあるがそれらの言葉が問題だとは思っていない。と、言葉の問題は別の機会に譲るが、例えば、手足が不自由な人が何処かに出掛ける場合、余程の近所でなければ、完全に一人で目的地にたどり着く事は困難だと言わざるを得ない。誰か他者の手助けが必要な場合がほとんどと言って良い。だからといって、彼らの外へ出掛ける権利を侵害する事は誰にも出来ない。盲導犬を連れた女性の話を書いたことがあるが、盲導犬を連れて入れるレストランの数は増えたとはいえ、それほどの数に達しているわけでもない。また、電車内、バス内においても、同乗した乗客が迷惑な顔をする場合も多々ある。こういった、当人の努力でどうしようも無い部分に対する差別的目線には怒りを覚える。前述の[太っている/痩せている]とは根本的に違う問題なのである。

また、ほんの十年、二十年ほど前の精神病院の閉鎖病棟の現状を精神科医の方に伺った事がある。病人を迎えに来る人も居ない、面会に来る人も居ない、紐で繋がれる、ベッドに縛り付けられる。電流を流す装置をつけられる。といった人権以前のレベルでの扱いがなされていたという話である。今でこそ、鬱であることなど、誰に憚ることなく表明できるが、その頃は精神を病んでいることを表明することは社会からの抹殺を意味していた時期もあったと言う事だ。このことを踏まえた上で、昨日のニュースで流れた知的障害を持つ児童に対するセクハラ裁判の判決について考えてみる。

「そういった事実があることは認めるが、場所や時間の特定が出来ない」


という判断で、結局は無罪となった。これは、その被害を受けた児童が知的障害を持っていることでその証言の信憑性を疑ったということだ。ここに強く疑問を感ずる。じゃあ、盲導犬を連れている人が交通事故現場の近くを通っていたとして、彼女の証言は全く意味をなさないという事になる。耳が不自由な人が通りかかっても同様だ。おかしな話では無いか?知的障害を持つ事と被害を受けた事は別個であり、場所や時間の特定が出来なくても、被害を受けたことが事実であるなら、罰せられなければならないと考える。

「社会的弱者だから守らなければならない」


と言っているのではない。その考えを頭から否定する事はしないが、その考えが臭い物にには蓋をする的な考えに繋がっていることは事実であるからだ。その事が前述の精神病院の状態を生み出したことも事実である。彼らの権利は正当に守られなければならず、それが守られていないということは、

「何をされても泣き寝入り」


と言っているのと変わらぬと思うのだが。



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時事問題 | 【2006-02-16(Thu) 20:11:30】 | Trackback:(1) | Comments:(1)
認めるか、認めないか・・・(違法行為後の会見)
企業の経営者など、パブリックな色合いの強い人々が経済事件などの社会的な意味合いの強い事件を起こすと、一般人の事件とは異なり、会見を行なう事が多い。「記者会見」「釈明会見」などと言われるものがそれで、例えば、ここ最近の話題をさらっている「構造計算書偽造事件」「ライブドア事件」などでも、当事者、関係者、被害者など多くの人が会見を開いた。無論、マスコミの取材だけでは核心部分が明白にならない場合もあって、事実をいくら積み上げたところで、真実にはたどり着けない場合もあるわけで、その真実を知るためには、当事者の発言以外にはありえない。「構造計算書偽造問題」では、ヒューザーの小嶋氏、イーホームズの藤田氏などの当事者も会見を開いたし、「ライブドア事件」でも、堀江氏も会見を開き、一昨日、昨日と新社長の会見なども行なわれている。

「会見」というのは、見ていると人それぞれの色が見える。そもそも、芸能人でもない人間が、多くの人の前で何かをするというのは通常の状態ではないので(芸能人であっても通常とは言いがたいだろうけど)、隠し切れない何かが見え隠れする気がして嫌いではない。国会の代表質問とか、答弁も同様のことが言える。彼らもある意味で芸能人以上に人前で喋る事のプロであるわけだが、そんな彼らでさえも十人十色という印象がある。個人的な意見ではあるが、現在の官房長官の安部晋三氏の定例会見はあまり見ていて面白くない。直近で見事だと思ったのは、福田康夫氏が官房長官時に行なっていた定例会見の様子だ。飄々とした様子で喋りながら、とぼけた味わいのようなものが見えて、裏がありそうな雰囲気をかもしながらも記者の質問を切り抜ける様子など見ごたえがあった。アメリカでも大統領や国務長官の定例会見はテレビでも中継されているが、なかなかウィットに富んだ演出があったりとなかなかに面白いものではある。「小泉劇場」などという言葉も生まれ、流行語大賞にも選ばれている。演出部分を担当する人が小泉首相以外にも出てこないかと思いながら見ているわけだ。そういう見方もお勧めだ。

・・・というか、話が逸れた。で、そんな最近、よくニュースなどでも、会見の様子を見るようになったところで、昨日の出てきたニュースで「東横イン違法改築」の報が流れていて、社長の会見の様子が流れていた。見事な開き直りっぷりと放言ぶりに呆れる前に爆笑してしまった。前述の「構造計算書偽造問題」の当事者たちも、「ライブドア事件」の堀江氏も徹底抗戦の構えで「容疑否認」の方向だし、責任の所在が自分に無い事を話し続けたが、東横イン・社長の西田憲正氏は昨日の会見で

「悪い事をしました。すいませんでした。」


といきなりの謝罪から入った。その口調もなんとも注意を受けての小学生の反応と変わらぬ開き直りぶり。正直言って、あの申し訳無いという気持ちなど欠片も無いくせに、関係者や責任者が立ち上がって頭を下げる姿のうそ臭さが胸くそ悪くて仕方が無いので、それよりは余程に"正直で宜しい"という気分になった。そういう人も他にも居るのではないかと思える。確かに、褒められた態度ではないし、違法なことを行なったのだから、責任は十分に取らなければ成らないだろうけれど、あの会見の様子すら、微妙な興味を持って見てしまうという所が正常では無いのだと思う。どれだけ世の中に、心のこもらぬ形だけの謝罪や見苦しい会見が多く転がっているのかという事の証明に他ならない。

もう何年も前になるが「誠意」という言葉が流行った憶えがある。使いやすい言葉ではあるが、この言葉に準じる事は難しいことだと私は思っている。最近よく言われる「倫理的責任」「道義的責任」などという言葉を改めて、口に出さねばならないのは「誠意」の不足なのでは無いかと思うのだ。政治家であろうと、企業家であろうとも、いち労働者であろうとも、そこには相手を慮っての「誠意」が不足しているように思えてならない。薄れてゆく日本人特有の心意気が見える気がする。


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時事問題 | 【2006-01-28(Sat) 12:20:21】 | Trackback:(0) | Comments:(0)
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